1. はじめに
先に『古代天皇紀年論の新考察』を「窓」に公開したが、この中で『倭の五王』論は、古代史における未解決の大問題であり避けていた。本エッセイは、その宿題に答えるものであり、シンプルな思考と、数理的考察、歴史のアナロジーによる、一つの解決案を提題するものである。
2. 『倭の五王』問題とは
『倭の五王』とは、古代史ファンにとっては周知であるが、5世紀初頭から末まで中国南朝の宋の正史『宋書』や『梁書』に記載された倭国の王のことであり、讃・珍・済・興・武をいう。およそ1世紀に渡り、晋、宋、斉などの中国南朝に遣使入貢し、各々官職を授与された「史実」がある。
『倭の五王』の何が問題なのか?第一は、いわゆる比定論であり、『記紀』記載の歴代天皇と五王との比定が全く確定されていない。それどころか、『倭の五王』は天皇にあらずとの左右の論者からの否定論も強い。第二は、日中韓の諸問題が根底にある。歴史認識問題や国境紛争など、解決困難な課題が多く、論説にも反映されている。特に朝鮮半島の学者には、倭の半島への影響を真っ向から認めない言説が多いが、史書や考古遺物からも倭の影響は明確である。ここではこれらの「差異」を捨て、各史書や金石文に基づいて、普通の感覚で、かつ数理的に考察する。
3. 解決の方法
本エッセイでは、以下の常識的・数理的な考察をベースとする。
1)5世紀に関する歴史書中心で考えるものとするが、是々非々で批判的に用いる。
2)中国の各王朝の歴史書、朝鮮半島の『三国史記』『三国遺事』と日本の『日本書紀』
『古事記』を用いる。内容は、漢文、翻訳文をともに照合し、孫引きは原則として避ける。
3)古代の出来事の正否は、歴史上の類似の出来事による類推アナロジーで判断する。
4)歴史書の信頼性を、暦は日蝕記事で確認し、記事内容は日中韓の三書間の照合で確認する。
4. なぜ朝貢したか?
東夷諸国が朝貢した理由は、一般に「朝鮮半島での支配権を中華の秩序の中で承認してもらい影響力を維持するため」とされている。中国王朝にとっては、①朝貢を受けることは皇帝の徳を示し、内外に政権の正統性を示すことができる。②異民族には、朝貢を受けて下賜を与えたほうが、敵対し戦となり軍事費を支出するより安上がりである。などのメリットがある。倭(日本)は中国から見て遠国であり、何らの脅威もないので②の安全保障の理由は無い。従って、①の皇帝の威光を示す理由が大きい。他方、陸続きの半島の諸国、特に北方の高句麗に対しては伝統的に警戒感がある。この類似は、3世紀の魏の時代に、卑弥呼が朝貢した時に『金印紫綬』を下賜されていることでもわかる。金印は半島諸国は後代になっても、すくなくとも史書上・考古学上は、得た証拠が無い。ところが、倭は、はるか昔の1世紀の後漢の時代にも、漢委奴王の金印を得ている。倭国が優遇された理由は、当時は①しかない。それでは、後年の5世紀の『倭の五王』時代もそうなのだろうか?①だけではない様である。倭を含む各国の朝貢理由は簡単に整理すれば、次の様になる。
① 新王朝の建国時や新皇帝の即位時で改元などを行う時点と符合している。(表-1を参照)
② 次に、自己都合である。即ち、自分の即位や王位継承時での挨拶になる。(表-2を参照)
③ あるいは軍事的な脅威に対し中国王朝への支援要請である。(表-2を参照)
ここで、①は、朝貢年が改元時の年号の数字で分かる。②は、自分の即位年代から初期の時点かどうかで分かる。③は、朝貢当時の各国の勢力状況・自国の危機状況から推測できる。
これから、日本側の史料の記述があいまいでも、矛盾があっても、確定された中国史料や半島の史料の記載年代から、五王の年代と該当する天皇を推測することが可能になると考えた。
5. 朝貢関係の年表による歴史的事実
下表1および2に倭・百済・高句麗の朝貢年表(1世紀~5世紀)を示す。ここで、266年から413年までの約150年が中国の史書に倭の記載がないため、空白の150年ともいう。また、倭の五王時代は413年から502年に相当する。朱書き部が新王朝の建国時、新皇帝の即位時もしくは改元年に相当する。叙位、授爵された将軍号については区分を緑色、黄色で示した。なお濃い色ほど序列は高い。
表-1は、①の建国時、改元時に相当し朝貢件数の半数を占める例である。1世紀や3世紀の時代に、遠国の倭が中国王朝の事情を直ちに把握し、これほど迅速に朝貢できたのか疑う説も多いが、この時代は、北朝の漢や魏であり朝鮮半島は統治されていて、陸伝いに帯方郡・楽浪郡経由で安全に行けた筈である。しかし、帯方郡・楽浪郡は313年に高句麗に滅ぼされている。4-5世紀は半島北部は高句麗に邪魔され、百済経由の黄海ルートだったと考えられる。
表-2は、②や③に相当し、例では385年に百済辰斯王は即位時に朝貢し冊封されている。
表-1「倭・百済・高句麗の朝貢年表-1」
表-2「倭・百済・高句麗の朝貢年表-2」②③朝貢国王即位挨拶や軍事的事件要因を示す。
表-2の例では、413年の高句麗・倭の同時朝貢は偽の遣使だとする説があるが、好戦的な好太王の没後であり、倭と高句麗の一時的な友好状態とも解釈されている。倭にとっては卑弥呼・台与以来の朝貢であった。特徴的なのは、倭がこの宋の時代に大いに朝貢していることと、中国王朝の高句麗への厚遇(高位将軍号)である。倭にとっては宋と高句麗の関係が強くなることは迷惑であった。倭王武の著名な上表文(478年)に、そのことがよく表れているが、ここでは詳述しない。
なお、新羅は表で明らかな様に、この期間、中国史書上には登場していない。事実、高句麗の広開土王碑文では属国扱いであり、倭の済王や武王の上表文では新羅や百済の支配権を許可されることを要求し、百済は認められなかったが、新羅は承認されている。新羅は弱小国だったのである。また、将軍号の序列は、どの王朝でも 倭<百済<高句麗の序列順は、ほぼ変わらなかった。
下表は南朝宋の将軍号序列を示す。例では平西<安東<鎮東<征東<車騎の順にレベル(品)が高い。この序列を解釈すると、高句麗は北朝にとって、地政学上・軍事上の保険、南朝にとっては北部の抑えの必要性から高位に位置付けたと考える。逆に百済は、高句麗の脅威を避けるために中国の各王朝に近づいたが、各王朝にとっても、高句麗への抑えのため、それなりの高位としたと考えられる。一方、倭は表-1に見るように、朝貢が南朝に集中しているのは、軍事・外交上の激動の時代であり、高句麗との関係で、朝鮮半島南部への影響を確保する必要があった。しかし、中国にとっては、5世紀末まで高句麗のほうがより重要だった結果だと考える。この扱いの【屈辱】が、7世紀の遣隋使まで、倭が中国王朝と接触しなかった理由だと考える。
表-3:南朝宋の将軍号序列
6. 朝貢と暦、および歴史的事件(天正遣欧少年使節と本能寺の変)
中国王朝から冊封されると、従属の証として暦は同じものを使用し、元号も合わせることになる。しかし、新羅では高句麗の従属から脱した時の建元元年(536)法興王から太和四年(650)真徳王まで独自年号を用いていた。後年、唐が独自年号の使用を咎めたために650年になって廃止、唐の年号を採用した。倭(日本)も、ずっと中国の年号は使用せずに、令和の今日に至っている。冊封もされず、独自路線を貫いて来た。唐に白村江で大敗した後でも、方針に変化は無かった。
卑弥呼の時代に、『景初暦』が魏の明帝の景初元年(237年)に制定されている。晋を経て、南朝宋の元嘉二十一年(444年)まで、また北朝の北魏では天興元年(398年)から正平元年(451年)まで丁度、五王時代に使用された。卑弥呼の朝貢238年はこの制定時に符合している。しかし、暦を持ち帰り、使用した形跡はない。暦伝来が伝えられたのは、応神天皇の時代になる。
ここで歴史のアナロジーでいうと、遥かな後世に、1582年から1590年にわたる「天正遣欧少年使節」がある。1585年に、グレゴリウス暦を2月に発布したグレゴリウス13世に謁見している。彼らを派遣したのは天皇でも信長でもなく、九州のキリシタン大名達なのである。少年らが新暦を持ち帰ったことは容易に推測されるが、痕跡は無い。卑弥呼も、あるいは同じような背景ではないか?世界のキリスト史の中では一大イベントであるが、日本史では単なる一エピソードでしかない。
実は、使節が日本を発った1582年の6月2日(旧暦)に本能寺の変で信長が亡くなっている。これには朝廷の黒幕説がある。暦を決めるのは天皇・朝廷の専決事項であるが、全国統一を目指していた織田信長は、天正10年(1582)正月に暦が不統一では困るとして、当時の関東で使用されていた三嶋暦に統一するように朝廷へ申し入れたが拒否されている。この年の6月1日に京都では部分日食が起きたが、京暦では見逃され、天皇をケガレから守ることができなかったという。信長は、再度、暦の統一問題を持ち出したが、事変はその直後の2日である。なおかつ、三嶋暦ではなく、信長が制定しようとしたのは、イエズス会が持ち込んだグレゴリウス暦だったという説もある。そうすると少年使節の派遣(1582年2月発)も信長が関与していてもおかしくはない。
7. 歴史書と暦の信頼性と日蝕記事
それでは、確認して見よう。国立天文台のソフト「日月食等データベース」を用いる。https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/eclipsedb.cgi によれば天正10年6月1日(西暦1582年6月20日)東京は皆既日食であり、見事に合致しており、信長暗殺の背景に暦問題があると言える。
ところで、卑弥呼は248年に没しているが、丁度248年9月に皆既日食があった。そこで、天照大御神と卑弥呼を同一人視して神話の「天の岩戸」と卑弥呼の死亡(殺された?)を結びつける説(井沢元彦氏他)もある。日蝕と指導者の死はよく結びつくようであるが、ここでは、次に古代史の紀年論のベースとなる暦の信頼性を『三国史記』(後述)の日蝕記事を抜き出して見てみる。
朝鮮半島の古代史は『三国史記』および『三国遺事』に依っている。前者は高麗17代仁宗の命を受けて金富軾が撰し、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする朝鮮半島に現存する最古の歴史書で1145年完成し、後者は3世紀末に高麗の高僧一然によって書かれた私撰の史書であり、大部分の撰述の時期は1270年代後半から1280年代中頃という。『日本書紀』『古事記』に比べ極めて新しい。そのため暦も正確なのか、驚いたことに日蝕の記事は、日蝕ソフトでの検証日時とほぼ合致している。表-4を参照。
表の数字は西暦年、月、月(*)は日蝕ソフト月。
国立天文台のソフトは日蝕が(見える/見えないが)日本東京が中心であるため、多少の誤差がある。また月の差異が1~3月程度あるが、月は『三国史記』記載のままであって、年と異なり、西暦換算していない。それでもこの精度である。それでは『三国史記』の年代は信じられるのか?三国時代(新羅・高句麗・百済)というが、ほぼ倭の五王の時代に相当しており、それ以前は中国の王朝は魏・呉・蜀から晋、五胡十六国の時代である。朝鮮半島は中国の帯方郡、楽浪郡の支配下にあった。特に百済・新羅は、卑弥呼の時代にそれぞれ馬韓・辰韓と言われていたことは『三国志』に明確である。また、3国とも、信じがたい非常に長い寿命や在位の王がいる。日蝕記事の正しさと歴史叙説の正しさは別である。右に中国・朝鮮半島・日本のおおまかな年表(図-1)を示す。
表-4:三国史記中の日蝕記事の確認 図-1:中国・朝鮮・日本の古代年表
8.天皇の紀年論の改訂
先に「窓」に寄稿した『古代天皇紀年論の新考察』で新紀年説を発表したが、今回、『倭の五王』考察に際し、より細かい1年単位の年代設定が必要となり大きく見直した。 手段としては①古事記の天皇没年干支を一応の基準とする。支持する学説が多くあり、かつ著者も『古代天皇紀年論の新考察』で妥当性をグラフで示した。②天皇の事績には空白年が有り、実質上も在位期間から省く説『無事績年削除法』(笠井倭人氏)について適用を考えた。③倭王の朝貢の年と天皇在位の整合性、倭王の系譜と天皇の系譜の整合性をみる。優先順位は③>①>② とした。③は中国歴史書の裏付けがある。②は数理的にはもっともな論説であり、在位計算の新設補強に用いた。整理した表を次に示す。結論の年紀はG項。原データAから順に→B→C→E→Gとして導いた。ここでBは、旧説でも用いた書紀干支による前天皇の崩御~現天皇の崩御間を在位年としたものである。Cは、Bを用いて雄略以前の在位期間を1/2とした。2倍説はDとの比率で補強されている。41代持統天皇の崩御697年を起点として計算しEを導き、Fの古事記情報で修正して最終的にGを得た。②『無事績年削除法』D項との照合はイ~二と図-3に示す。Aと無事績考慮年Dとの比率は、代数に限らずほぼ2倍、3倍であった。
表-5:新説年紀表
表-5下段のイ~二に示す様に、比率は結果的に、いわゆる紀年の2倍説、3倍説に相当する数字となった。ここではグラフで整合性のある2倍(1/2倍)説をとった。図-2は、旧説R2=0.97に対し、新説は0.99とほぼ1.0であり、天皇年紀としてより妥当であることを示す。
図-3は崇神~持統間のデータであるが崇神以前を入れるとややバラつくが、ほぼ対応している。
9. 倭の五王の比定
1) 『倭の五王』の比定結果
表-6に 五王の比定結果を示す。参考として図-4に 五王と天皇の系譜を示す。表-6は仁徳天皇から雄略天皇までの各天皇と五王の讃、珍、済、興、武を照合したものである。新説年紀と系譜はよく合っている。即ち、讃は仁徳、珍は反正、済は允恭、興は安康、武は雄略である。図-4において、中国史書では讃と珍が兄弟であるが、仁徳と反正は親子である点がしばしば問題視される。しかし表-6で反正が先代(履中)の弟であり、履中を430年朝貢の王名不明の倭王とすれば問題は解消する。この説は先学も多く説かれている。例えば次の http://mb1527.thick.jp/「古代史の復元」にも詳しい。曰く「438年の倭王珍の朝貢時に、珍は、安東将軍、倭国王を叙爵した。珍はまた倭隋ら十三人に平西将軍号他の叙爵を求め、すべて受入れられた(宋書)とある。倭隋は平西将軍であるが「倭国から見て西方は朝鮮半島を意味し平西将軍は倭王以外に考えられず倭王隋は第6番目の倭王となる。」として、隋を430年に朝貢した名前不明な倭王とし、履中天皇と推定している。ここで437年には履中は没しているが、438年の珍朝貢は1年違いで許容範囲である。なお、表の書紀内容は呉即ち南朝宋との関連を示す記事であり、朝貢の事実を補足している。問題は書紀の記事には仁徳紀に応神紀が紛れている点である。無事績年(空白年)でみると応神では18年、仁徳に至っては56年もあり、日本書紀編纂の史料整理中にずれ込んでも不思議はない。表-6には干支換算で調整した年(青部)を記載した。
下上:表-6 五王の比定結果、下下:図-4 倭王と天皇の対象系譜
2)百済 武寧王情報による補足(先稿『古代天皇紀年論の新考察』を参照)
1971年韓国公州宗山里から武寧王の墓誌が出土した。ここに癸卯年(523年)に六十二歳で没したことが明確になった。驚く事に、日中韓3ケ国の資料全てが一致する。
・『三国史記』:武寧王二十一年に梁に朝貢し寧東大将軍の詔冊を受ける。➡521年
武寧王二十三年の条 夏五月王薨ず。 ➡523年
・『梁書』:武帝紀普通二年 鎮東大将軍百済王余隆を寧東大将軍となす。 ➡521年
・『日本書紀』:継体紀十七年夏五月百済王武寧薨ず。 ➡523年
書紀によれば、武寧王は雄略5年(461年)に日本の島で生誕した。従って、雄略元年は457年となるが、それでは460年、462年の朝貢が雄略となり、安康説と合わない。ここで、雄略元年の干支は書紀で丁酉、古事記で癸卯の差6年を考慮すると463年となり、丁度、安康天皇没年462年の翌年が元年となる。一方、表-5から、雄略の在位年は原データも見直し案も同じ23年である。没年が489年であれば元年は467年となる。表-6の書紀の内容は武の貢献年と身村主青の派遣年と帰国年はつじつまが合う。一方、書紀では没年は479年なので、元年は457年になる。雄略6年の呉からの倭への朝貢は462年となり、倭の朝貢年462年に呉(南朝宋)の使者が来てもおかしくない。どちらも有り得る。467年説の問題は、安康462年没からは約4年の空白がでることであるが、雄略4年に葛城山で天皇にそっくりな神に出会う奇妙な記事があり、古事記にも同様な記載がある。本当の即位をこの時とすれば、4年の空白は一応説明はつく。
3)百済 蓋鹵王の情報による補足
百済の蓋鹵王(在位455年~475年)は、雄略の在位期間と重なる。宋と通じ457年「鎮東大将軍」を叙授された。461年には王子昆支(文周王の弟)を倭国に人質として送り、新羅・倭国と同盟して高句麗に対抗した。北朝に対しても高句麗討伐を働きかけ失敗し、高句麗の侵攻を招き、475年に首都慰礼城を陥落させられ戦死した。百済は一旦ここで滅ぶ。書紀は雄略21年(477年)に蓋鹵王の子の文周王を支援して復興をさせたと記す。なお、昆支王は倭に留まり、子の末多王が倭兵に護衛されて帰国し雄略23年(479年)に東城王として即位している。
雄略天皇は、和名を大泊瀬幼武といい「武」が入っていて倭王「武」に相応しい。また勇武なエピソードも多く、内にあっては豪族の葛城氏や吉備氏を屈服させ、外交的には百済への支援、新羅への出兵などを積極的に実行した。朝貢が478年と即位から遅れたのは、これらの対応のためと、明らかに高句麗対応のためである。これらは倭王武の上表文の内容に合致しており、倭王武=雄略天皇説は疑いなく、倭王の各天皇への比定も系譜により妥当である。
・弊説の紹介は以上になります。各位の忌憚のないご批判・ご指導をお願いします。以上
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