1.まえがき
私は、ご縁があってSCE・Net 環境研究会の末席をけがしているが、マイ・テ
ーマとして、SDGs関連の、特に大気オゾン濃度の影響について研究している。
オゾン関連では、この「窓」にも2 回投稿させて頂いた。今回、趣味の古代史散
策として、気候変動が歴史の転換期に影響したという説の正否を見直していた。
その中で、火山の大噴火が世界的な気候変動に直結するという研究と、噴火によ
り大気オゾン濃度が減少するという資料を見いだした。これらの関係について、
考察したことを、あくまでも個人的な見解として2回に分け、お伝えしたい。
2.気候変動と古代史
(1)山本武夫氏の論(『日本書紀の新年代解読』1979 年刊)
私が古代史に嵌まった図書の一つに古代史マニアの間では著名な山本武夫氏の
『日本書紀の新年代解読』(昭和54 年初版本、当時1500 円)がある。この中で
氏は、韓国史書『三国史記』の気候資料とFairbridge(フェアブリッジ)のEustatic
curve(海水準曲線)とを用いて気候変動曲線が類似すると主張している。図1 を参
照されたい。この資料を根拠に、『三国史記』の異常気象は日韓同時期として、崇
神天皇時代が四世紀初頭であると推定している。理由は、日本書紀の崇神紀に記
す、有名な「国ノ内疾疫多ク民死亡者有リ、百姓流離(サスラ)ヘヌ云々」を単
に疫病を要因とせずに、気象変動によるとした。この点は次々項(3)で述べる。
(2)岡山大学「魏晋南北朝時代の気候変動に関する初歩的考察」(2008 年)
表題の研究報告書の中で著者佐川英治氏は、古気候学を活用して歴史と環境を
概観した新しい歴史観を提題している。曰く、【中国学者が2 世紀後半に寒冷・
乾燥化した後に、3 世紀を挟んで4 世紀末から再び寒冷・乾燥化したと言うが、
これは山本武夫氏(1978)が『三国史記』の冷夏の記録と大雪の記録をもとに作成
した図2 の「冷涼数」「大雪数」の推移とほぼ一致している。山本は図2 から400A.
D.が「小高温期」であったと読み取るが、半世紀ほど早めて3 世紀半ばと考え
れば、図3 の推移とも一致する(文献資料によらない方法で中国大陸の歴史的な乾
湿変化を推定した研究を福澤仁之氏(1994)が示した)】とする。即ち、データ
と文献がよく合うと言うのである。この点は古代韓国と日本の文献とデータが一
致するとする山本の図2も同じ思考である。
(3)弊考え:第2 回でも補足する。
先ず、(1)項の崇神紀の件は、疾病ではない理由として崇神の「寒さ暑さ序を
失えり.疾病多に起こりて、百姓災を蒙る」の言から、疾疫が農と関係する栄養
失調症であり、その原因はやはり異常気象であったと考える。また四世紀初頭の
韓国では旱魃の記事が高句麗、百済、新羅共に多い。一方、日本史でも実在が尤
もらしい天皇は、多くの歴史学者は、崇神からとし、4 世紀初頭を推定しており
納得できる。崇神紀から過去に遡ると、
1)1世紀初頭の倭国揺籃期、中国は新の王莽の時代で彗星や地震、日食もあっ
たが、大風・雹・大雨・大雪などの異常気象が多発したことが王朝が倒れた主要
因とされている。その後、光武帝の後漢となる。この時、AD57 年、倭は朝貢し
て有名な金印(国宝)を授与されている。また107 年にも倭王帥升等が遣使した。
なお、弥生時代中期後(紀元前2 世紀~紀元1 世紀)は温暖化で、弥生社会が豊
かになり、その後一転、中期末から後期初頭(紀元1~紀元2 世紀)に寒冷化する
ことが、考古学の遺跡数や住居の総面積などから示されている。図1も図2も同
じ傾向である。ところで、57 年、107 年とも同じ年に皇帝が亡くなっているが、
果たして偶然だろうか?ちなみに、卑弥呼遣使は238 年、翌239 年に皇帝崩御。
2)その後、黄巾の乱(184 年-205 年)が起き、曹操が崛起し、三国志の時代
となる。一方、桓帝・霊帝の治世の間(146 年-189 年)あるいは漢の霊帝の光
和年間(178 年-184 年)に「倭国大乱相攻伐,歴年無主」とある。この黄巾の
乱も、倭国大乱も異常気象による飢饉が主原因との研究がある。正に寒冷期のど
真ん中である。ちなみに新羅本紀193 年に倭が大飢饉で避難民千余人も到来とあ
る。図1、2 を参照願う。囲った枠内が1世紀~4 世紀である。
3)三国志の時代(概ね190 年-280 年)が正に卑弥呼、邪馬台国の時代である。卑
弥呼は三国志によればこの大乱後(189 年か)に共立された女王である。しかし、
新羅本紀173 年に倭女王卑弥呼が新羅に遣使・来聘したとある。一方、三国志で
は卑弥呼の死は240 年-248 年頃である。卑弥呼の在位が仮に173 年からとすれ
ば、古代にあってはとんでもなく長寿命である。だが、三国志魏志倭人伝には「年
長大」とある。本文中に「(倭人は)寿考(長生き)にして、或いは百年、或いは八、
九十年」ともある。また倭人伝本文は人々は裸足であり、衣服も簡単、温暖な気
候、豊富な作物や自然、大人口を記しており、飢えや疾病、異常気候を想起させ
る文章は一切なく、寒冷化を想定できない。そこで、山本武夫は「日本列島の気
候は小氷期にあったと思われるが,当時の近畿地方はパリア海退進行過程の場合
の室町時代がそうであった如く、農業災害の頻出した最悪の気候条件下であった
と推定される」とし、図1と図4に示すように「Florida Emergence 期のヨーロ
ッパでは,スカンジナビア半島はじめ北欧はClimatic depression(気象恐慌)の
最悪の状況下にあったが、地中海沿岸は温暖多雨の気候に恵まれ、それがロ一マ
帝国繁栄の因をなした。日本列島の気候についてもこの様な南北逆関係の変動が
認められ、農耕に適当な気候が南九州以南にのみ存在し、その好条件下に繁栄し
て、九州の小国群の盟主として臨んだのが卑弥呼の邪馬台国ではないか云々」と
言う。長く引用したが、後進の気象学者達からは自信過剰な論との批判もある。
しかし、私には魅力的な論であり、逆にもっと学問的に論争して欲しいと考える。
なお、「火山噴火」と気象変動、および古代史の関係については第2 回で述べる。
以上
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