「神功皇后」の復活-3の続き(最終版である)
3-2.実在説:文献上の考察
4)人質 未斯欣の年紀
ここで、未斯欣の人質派遣の年紀について、ハワイ大学のチズコ・アレン(Chizuko T. Allen)「Prince Misah1n: Silla’s Hostage to Wa from the Late Fourth Century 」の説をみてみる。
彼女は「高句麗と新羅、百済、倭との関係についての(好太王碑の)冒頭の記述は、倭の活動を軽視するような読み方をする学者もいるが、そのような読み方は碑文の構文や文体にはそぐわない。最も自然で論理的な読み方は、次のようなものである:百済と新羅は長い間、高句麗の支流だったが、391年以降、倭は海を渡り、百済、新羅を攻撃し服属させた。新羅は4世紀後半から5世紀初頭にかけて、391年から399年にかけて短期間倭に服従した以外は、おおむね高句麗の影響下にあった。対照的に、この時期の百済は、396年から399年にかけて一時的に高句麗に服従した以外は、倭と協力して高句麗・新羅連合と争った。391年から399年にかけて、新羅は倭と結びついて高句麗と敵対し、391年以前と399年以後は倭の侵略を防ぐために高句麗に頼っていたことが分かっている。391年から399年の間が、新羅が倭に未斯欣を服従させた唯一の時期である。」とした。そうすると、人質派遣は390年説も402年説も成立しない。しかし、古代の紀年において数年の差異は有り得るので、390年説としたい。高句麗人質の寶海(卜好)は『三国史記』では412年に派遣され418年には朴堤上の尽力で帰国できている。しかし『三国遺事』では419年に派遣、425年に帰国と全く違う。未斯欣(美海、美斯欣)の方は『三国遺事』では390年に倭に派遣、418年帰国、『三国史記』では402年に派遣され、418年に帰国となっている。分かり難いので、次に示す『朴(金)堤上伝と倭国』2013年、辛鍾遠(韓国学中央研究院)記載の表と左図(弊作成)にて差異を理解されたい。
上表から分かることを整理すると、次の様になる。
① 未斯欣も卜好も同じ時期に同じ訥祗王の時代に帰国した。(史記も遺事も同じ記載)
② 卜好の抑留期間は、史記も遺事でも同じ6年である。
③ 史記も遺事の記事の差で、同時帰国時期の差異と、卜好の派遣時期の差異は7年で同じ。
④ 未斯欣も卜好も派遣時期の王名が、史記でも遺事でも異なっている。どちらかが正しい。
⑤ 未斯欣の抑留期間は、『三国史記』で16年、『三国遺事』で35年と異なる。
以上から、未斯欣の倭への派遣を390年とすると、新羅王の弊紀年説では、奈勿王は390年即位であり合致する。奈勿王以降は通説の紀年とする。次の実聖王は402年即位であり、これが混同されたとみる。実聖は高句麗に人質として差し出されていたが帰国後、先代の奈勿王が薨去した時、太子を差し置いて国人が推挙して実聖を王位につけたという。最期は訥祇王の殺害を依頼した高句麗人に逆に殺害されたとも、高句麗人から害意を聞いた訥祇が殺害したともいう。なお、通説では、奈勿王により高句麗に人質にされた実聖が、それを恨んで、即位後に奈勿王の息子を高句麗へ人質に出したというが、丁度、好太王から長寿王へ替わる年の412年でもある。それを取ると、同時帰国は史記の418年説となり、訥祇王即位年正月の祝いに合わせたとも考えられる。
結論は、未斯欣の人質派遣の時期は、三国遺事に従って390年であり、この時、倭は応神が即位している。帰国時期は、三国史記に従い、418年で仁徳の時代になる。その整合性であるが、ここでも、栗原薫の「辛酉起点半年一年の紀年説」を適用してみると、新羅侵攻346年(丙午、No.46)、人質派遣390年(庚寅、No.30)から、(46-30)×2-1=31から、No.31(辛卯、391年)と390年と近い。
これは、前号の新羅征討時の紀年の検討でも、346年説と391年説の比較を際に示した計算と同じである。なお、389年に神功は崩御、390年に応神即位、391年に好太王が即位している。弊紀年説では、390年に新羅の訖解泥師今が亡くなり、奈勿麻立干が即位した。訖解王は子がなかったために王位は金氏に移り、昔氏王統の最後の王となった。王位名称も泥師今から麻立干に変っている。
5)朴堤上(金堤上)について
未斯欣を身を犠牲にして倭国から救出して帰国させた朴堤上(金堤上)は、先に触れた昔于老と
共に、朝鮮史上の偉人であり、千古の亀鑑として、朝鮮時代の古書に掲載されたり、今日の敎科
書などでも紹介されたりしているという(辛鍾遠 韓国学中央研究院教授)。『三国史記』の朴堤
上伝には別名の「毛末」も載せられており、名前が書紀の神功皇后記5に出てくる「毛麻利叱智」
であることはかねてから指摘されてきた。これを信じると、346年から5年後でも早すぎ、朴堤上
や未斯欣の時代にはまったく合わない。そこで、先に、栗原説で示した「辛酉起点半年一年の紀年説」を適用すると、346年(丙No.46)から、46/2+30=53より、新羅侵攻時の346年を神功元年とみれば5年後は、53+5=58→No.58(戊午、418年)になり、合致することになり、418年を正とする。
ところで、新羅征討時の新羅側の王名は、神功記では「新羅王波沙寐錦」とある。この「波沙寐
錦」は、『三国史記』の第5代「婆娑尼師今」(在位80~112年)と推定されているが、年代は古くて神功の時代とは修正しても合わない。しかし、この朴堤上の祖先は、『三国史記』によれば、婆娑尼師今であり、彼は5世の孫なのである。従って、史書の混同があったのではないかと考える。
以上で、神功皇后の実在説について、幅広く検討した結果、合理的な説明ができたと考える。彼女が新羅征討を行った4世紀中から5世紀末は、倭、新羅、百済、高句麗および中国の南北王朝は、添付の年表を参照すれば分かるが、絶え間のない動乱の時代であったのである。 <完>
添付:【倭・新羅・百済・高句麗 関係年表】
黄色が戦闘、緑色が朝貢・外交、青色が人質関連である。
344年:倭国が使いを遣わし、婚姻を求めてきたが、断った。(新羅本記)
345年:倭王が、書を送って国交を断ってきた。(新羅本紀)
346年:倭兵が突然風島に来て、民家を略奪し進んで金城を包囲して攻めて来た。(新羅本紀)
(神功皇后の新羅征討と推定)
355年:高句麗の故國原王が前燕の慕容儁 から高句麗王・征東将軍に封じられる。
364年:夏四月倭の新羅侵攻。倭人の侵攻を伏兵がその不意を討つと、敗走した(新羅本紀)
369年:倭が新羅を討伐し、七か国を平定。百済王と辟支山で盟約した。(日本書紀 神功49)
370年:前秦は6万の軍で前燕に攻勢をかけ、前燕も40万の軍で応戦したが敗北し滅亡した。
371年:百済近肖古王、高句麗を攻め、高句麗故国原王が戦死。(百済本記・高句麗本記)
372年:百済近肖古王の世子・貴須(仇首)が倭王旨に七支刀を贈る。(七支刀、神功52)
372年:東晋・孝武帝、百済王近肖古王(余句)を鎮東将軍領楽浪太守にする。
377年:新羅は高句麗とともに前秦(符堅の時代)に朝貢した。(三国史記・高句麗本記)
386年:東晋・孝武帝の大元11年に百済の辰斯王を鎮東将軍に封じる。
390年:倭王が新羅に人質を要求。奈勿王、王子の美海(未斯欣)を倭に送る。(三国遺事)
(390年に応神即位と推定)
391年:高句麗の19代好太王(広開土王)即位。(好太王碑)
391年:新羅・百残は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が臣民となした。(好太王碑)
392年:高句麗好太王が4万の兵で百済を攻め関彌城ほか多くの城を奪った(好太王碑)
392年:新羅奈勿王が 高句麗に人質(実聖)を送る。(三国史記 新羅本紀)
393年:夏五月倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。退却時を追撃、大敗させた。
393年:百済は1万の兵で高句麗に戦いをしかけるも兵糧が尽きて撤退。(三国史記)
396年 :好太王率いる高句麗軍が百済を攻撃。百済の阿莘王は高句麗に服従を誓う。(好太王碑)
397年:百済、倭国と通好し、阿辛王太子の腆支を人質とした。(百済本紀、応神8)
400年:倭人が首都金城を包囲。高句麗の援軍が来ると任那伽耶に撤退。(新羅本記)
401年:高句麗の人質(実聖)が帰国する。(新羅本紀)
402年:新羅が倭国に未斯欣(美海)を人質とした。(新羅本記)
404年:倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、討って大敗させた。(好太王碑文)
405年:夏四月倭人が明活城を攻め、退却時を追撃して撃破。(新羅本記)
405年:倭の人質百済王子腆支が倭兵に送られ帰国し百済王に即位する。(百済本記、応神16)
407年:春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。(新羅本紀)
408年:実聖尼師今が対馬で戦争準備している倭人を攻めようと考えるが臣下に止められ断念。
412年:高句麗の好太王(広開土王)が死去。(好太王碑)
412年:高句麗へ新羅奈忽王の王子卜好(寶海)を人質に送る。(三国史記・新羅本記)
413年:東晋(義熙9)高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。(太平御覧)
415年:八月新羅が倭人と風島で戦い勝つ。(三国史記・新羅本記)
416年:東晋(義熙12)百済腆支王(余映)を鎮東将軍、高句麗長寿王(高璉)を征東大将軍へ除正
417年:奈忽王の子、高句麗を介して実聖王を殺害し納祇王として即位。 (新羅本紀)
418年:高句麗と倭国に送った人質(卜好と未斯欣)が堤上の尽力で帰る。(三国史記・新羅本記)
419年:寶海(卜好)を高句麗へ人質へ(三国遺事)
420年:劉裕(宋・武帝)東晋から禅譲を受けて南宋を建国、東晋はここに滅ぶ。
421年:倭王讃が宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。(宋書 夷蛮伝)
425年:倭王讃 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(宋書 夷蛮伝)
425年:新羅王の家臣・堤上は寶海と美海を帰国させた。倭王は堤上を処刑。(三国遺事)
430年:倭国王が1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(宋書 文帝紀)
431年:夏四月倭兵、新羅の東辺を襲撃、明活城を囲む。(三国史記・新羅本記)
433年:百済、新羅と同盟(羅済同盟)
435年: 北魏太武帝 高句麗長寿王に征東将軍を除正
438年: 倭王讃没し、弟珍立つ。慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王を自称。(宋書 夷蛮伝)
440年:倭が南辺を襲撃、生口を掠奪する。また東辺を襲撃する。(三国史記・新羅本記)
443年:倭王済 宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。(宋書 夷蛮伝)
444年:夏四月に、倭兵が金城を十日余り包囲して、食料が尽きて帰った。(新羅本紀)
450年: 新羅 高句麗との国境で紛争 (三国史記・高句麗本記)
451年: 倭王済 「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に任命。(宋書)
451年: 倭王を安東大将軍・加使持節都督へ進号…(宋書)
455年: 高句麗が百済に侵入し百済へ援軍を送る
457年: 宋・世祖、百済蓋鹵王(餘慶)を鎮東大将軍に除正
458年: 百済蓋鹵王(余慶)、宋に使者を送り、臣下の叙授を求める。
459年: 倭人・兵船100余りで新羅の東辺を襲い月城を囲む。(三国史記・新羅本記)
460年: 大明4 倭国が12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。(宋書 孝武帝紀)
461年: 百済の武寧王誕生。(斯麻王(武寧王)墓碑) (百済本記に記事無し?)
461年: 百済蓋鹵王が弟の昆支君を倭に人質 (百済本記に記事無し?)
462年: 倭王済死す。子の興を「安東将軍倭国王」とする。(宋書 孝武帝紀、倭国伝)
462年: 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。(新羅本紀)
463年: 春二月倭人が新羅歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。(新羅本紀)
463年: 吉備上道臣田狭の反乱 新羅と結ぶ。 (日本書紀 雄略7)
463年: 高句麗長寿王(高璉)を車騎大将軍に除正
465年: 高句麗長寿王(高璉)、北魏への送使を再開。
468年: 高璉、靺鞨兵1万を率いて新羅の北辺を侵略。 (高句麗本記)
472年:高句麗長寿王 魏に朝貢 (高句麗本記)
472年: 百済蓋鹵王(余慶)、北魏に使者を送り、高句麗出兵を求める。 (百済本記)
475年: 高句麗長寿王、兵3万を率いて百済の漢城を陥落させ百済蓋鹵王を殺す。(高句麗本記)
476年:夏六月 倭人・東辺を襲撃。(三国史記・新羅本記)
477年: 慈悲王20 夏五月倭人の軍隊が五道を通って侵入 (新羅本記)
477年: 南朝宋の建国:後廃帝が殺され蕭道成によって順帝が擁立され即位。
477年: 興死し弟武立つ 遣使して貢物を献ずる。(宋書)
478年: 倭王武が宋に朝貢。「開府儀同三司」と自称。安東大将軍倭王に任命された。(宋書)
478年: 百済文周王、暗殺され、高句麗の後援で文周王の子・三斤王即位。(百済本記)
479年: 南斉の建国:蕭道成は、順帝から禅譲を受けて南朝斉を建国。高帝が即位。(梁書列伝)
479年: 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「鎮東大将軍」に進号。(『南斉書』倭国伝
480年: 高句麗長寿王(高璉)を驃騎大将軍に叙す。
481年: 高句麗と靺鞨が新羅へ侵入 百済、伽耶の援軍により撃退 (新羅本記)
482年: 五月に倭人が辺境を攻める。(新羅本紀)
484年: 高句麗が侵入、百済援軍と撃退 (新羅本記)
486年: 夏四月に倭人が辺境を攻める(新羅本紀)
490年: 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)
492年: 北魏より高句麗王文咨明(高雲)を征東将軍・領護東夷中郎将へ除正
492年: 梁より高句麗王文咨明(高雲)高羅雲を征東大将軍へ除正
492年: 南斉・武帝は高句麗文咨明王(高雲)を征東大将軍へ除正
493年: 新羅、百済に花嫁を送る (新羅本記)
494年: 高句麗文咨明(高雲)を驃騎大将軍へ
495年: 高句麗、百済の雉壌城を攻め、新羅が百済を救援する。(新羅本記)
497年: 夏四月倭人が辺境に侵入。 (新羅本記)
500年: 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。(新羅本紀)
501年: 百済東城王暗殺され、武寧王即位。
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