1. はじめに
日本古代史には謎が多い。殆どの古代天皇は実在が疑われ、架空扱いである。ところが、釈迦や孔子、キリストは存在を記録した書物も多く、疑う人はいないだろう。しかし天皇にも書物は『日本書紀』も『古事記』もあるのに疑われている。本エッセイは、この根本的な問に対して、『紀年論』の新しいアプローチによる考察を紹介するものである。どうか、気楽に読んで頂きたい。
2.そもそも『紀年論』とは
ここで『紀年論』とは、『日本書紀』や『古事記』に記載された古代天皇の在位期間や寿命は、何故不自然に長いのか。この紀年の正否を明らかにする試みをいう。
その論点は、次の2つと考える。
a.古代天皇の在位期間や寿命(享年)における非現実的数字(次頁 表-1を参照)
b.諸外国史料(中国の『宋史』『梁書』など、特に『倭の五王』問題、韓国の『三国史記』、『好太王碑文』等と古代天皇の在位期間との年代的不整合
『紀年論』については、歴史家はもちろん、アマチユアも含む多くの論考が世に溢れ、汗牛充棟の感がある。ただ、アマチユアの説と言ってもデータに基づき丹念に深堀したものが多く、理系視点のものも多い。参考にした図書の中から主なものを次に示す。
(1)『日本書紀の新年代解説』山本武夫(気候学者) 学生社 1979年
(2)『日本古代暦の証明』吉村貞司(杉野女子大)ロッコウブックス 1981年
(3)『古代天皇長寿の謎』貝田禎造(奈良県土木技師)ロッコウブックス 1985年
(4)『日本書紀の真実 紀年論を解く』倉西裕子(日本史家) 講談社 2003年
(5)『暦で読み解く古代天皇の謎』大平裕(元古河電工)PHP研究所 2015年
(6)『理系が解く「日本書紀の謎」』善積章(元東芝ケミカル)彩流社 2022年
(7)『日本書紀の年代の法則』福田健(医者)現代書館 2022年
(8)『数字から読み解く歴史の謎』谷崎俊之(大阪市立大)2016年(2022年ネット情報)
3. 史書にみる古代の暦認識
日本で暦の概念が生まれたのは果していつ頃か?『卑弥呼』で有名な『三国志 魏書東夷伝倭人条』陳寿(3世紀)の中の一文に、「魏略曰其俗不知正(歳)四節但計春耕秋收爲年(紀)。人多壽百年、或八九十」がある。前半は「『魏略』に言う、その習俗は正歳、四節を知らず。但し春に耕作し、秋に収穫することを計り、年紀としている。」後半は「(倭)人は寿考(長生き)にして、或いは百年、或いは八、九十年」である。一般にこのままには受け取られず、いわゆる1年を春秋2回数え、寿命を1年紀の2倍としている『2倍年暦説』を取る論説が極めて多い。この2倍説は後段で扱う。
また、小野妹子の遣隋使の記載がある『隋書俀(倭)国伝』に「無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字(文字無く、ただ木を刻み、縄を結ふ。仏法を敬ひ、百済に仏経を求め得て、始めて文字有り)」とある。実際、「日本書紀」欽明15年(554年)に、百済の暦博士固徳王保孫、暦法をもたらすという記事がある。そして推古12年(604年)に、日本最初の暦(元嘉暦)を作成し頒布を行ったと伝えている。
中国歴史書の記述は正しく、日本書紀自体も当時の暦文化レベルを認識していることになる。古代の紀年が不自然なのは、やはり暦法伝来前の記録手法の違いだろう。
天皇の不自然な寿命、在位年数 (前頁の論点a)
1) まず寿命について
平均寿命に関する資料を、以下に示す(左図は日本人寿命の変遷、右図は主要国の平均寿命の変遷。各出典は図中に示す。)。これからは、昔は寿命は短かかったことは正しいと言えるが、家康は73歳、北斎に至っては90歳である。昔は幼児死亡率が高いので、平均寿命では実感と合わないと思う。20歳以降の平均余命で考えるべきだろう。
2) 歴代天皇の寿命および在位
古代天皇の在位、寿命を下表に示す。在位60年以上、寿命100歳以上を強調した。表-1
ここで、初代(神武天皇)から現在の125代上皇までを考察すると、以下になる。
①1~16代(神武~仁徳) :平均在位60.6年、寿命111歳 ※上表(表-1)を参照
②17~39代(履中~弘文) :平均在位11年、寿命56.歳、
③40~99代(天武~後亀山):平均在位11.9年、寿命45.6歳、
④100~125代(後小松~上皇):平均在位24.5年、寿命52.8歳。
②~④の平均は、在位14.7年、寿命49.6歳であり昔は人生50年と言う俗説に近い。
一方、①の古代天皇の寿命は平均の約2倍であり、『2倍年暦説』の根拠となっている。
3)日本書紀と古事記の違い
表-1は第16代仁徳天皇までであるが、古事記没年の記述は、第33代推古天皇まで計15個ある。しかし、日本書紀と古事記では天皇の寿命は殆ど異なっているので、議論も多い。
図-1.書紀・古事記の崩年(西暦)の変化 図-2.書紀・古事記差異年の変化
図-1で明確なように、古事記(赤点)の方が書紀(青点)に比べ、変化は妥当であり、統計
決定係数のR2値はほぼ1.0になるため、古事記の紀年を支持する向きが多く、崇神の年紀(318年没)もほぼ定説化している。古事記-書紀の差異年を確認したのが図-2である。
代数につれて減少し、第16代仁徳天皇の頃に急激に屈曲してゼロに収束していく。
図-3は、天皇寿命の日本書紀-古事記差異の累積グラフであるが、崇神の前の開化でピークになり以降はフラットになる。即ち、寿命差異は崇神以降では殆どなくなる。従って、図-2では在位が仁徳以降で、図-3では寿命が崇神以降で書紀と古事記の数字が合ってくる。つまり在位と寿命は傾向が違う。
天文学者の小川清彦は1940年、日本書紀の暦記述における元嘉暦と儀鳳暦の違いを明らかにした。大方の見解は、神武紀~安康紀(もしくは允恭紀)までは、儀鳳暦で、雄略紀~持統紀までは元嘉暦としていて、19代允恭・20代安康前後で屈曲点があることになり、画期的な論だが、中国暦適用の変化のみでは、古代紀年の不自然さを説明できていない。
4)2倍年説、3倍年説、4倍年説、筆者説
『紀年論』として、2頁で2倍年説(資料の(1)他)を紹介したが、実は、他に3倍年説(同、資料(7)他)、4倍年説(同、資料(8)他)があり、百家争鳴の有様であるが、要するに、古代日本に中国暦とは異なる暦法があったとする。図-4は各説をグラフ化したものである。
※筆者の書紀修正説:書紀の紀年は年月日とも全て干支法である。干支は、十干、即ち甲乙丙丁戊己庚辛壬癸と、十二支、即ち子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥であり、組み合わせて甲子(きのえね)・乙丑(きのとうし)等60種のよび名を作り、年月日に当てはめる。60年で一巡するので、還暦となる(下表-2参照)。これにより書紀の記述を、先代天皇没年-対象天皇没年や同様に即位-即位年を干支で見直し、在位が60年を超えないように調整したのが筆者修正案である。これらの各説を表-2に示す干支番号から自動計算したが、詳細は割愛する。ただし、9代開化、12代景行、13代成務は同じ干支-干支なので丁度60年となり、在位ゼロ年となって成立しない。従って、開花は60年とし、変化点の起点を、318年没年が定説の10代崇神として、以降は書紀に従った。2倍暦、3倍暦、4倍暦も同様に、崇神以降も書紀年紀をそのまま敷衍した。どの倍説もグラフは平準化しており、この仮説は妥当と考える。図-4からは3倍説がもっとも妥当であるが、立太子年齢にて再考察を加えたい。表-1から、立太子年齢はそのまま実年齢だと考えられ、単純な倍数にならない筈である。
表-2 干支表(辛酉を起点1とする)
5)補足:将軍家の例
在位の参考として、足利将軍家と徳川将軍家の例を下記に示す。
足利は動乱の世紀、徳川は平和な時代であり平均在位はそれぞれ約13年、20年と差異が
あるがグラフ自体の平準性は保持されており、図-5、図-6は整合性判断に使用できる。
5.外国の歴史書との整合性 (1頁の論点b)
『日本書紀』では『百済記』『百済新撰』『百済本記』の3書が明示的に引用されていて、『紀年論』では、百済王の即位や没年が書紀の記載年との不整合性が問われている。しかし、原本は現存していない。一方、現在の韓国・朝鮮では『三国史記』および『三国遺事』が存在し、書紀との整合性判断の基準となっている。前者は、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする半島最古の歴史書で1145年に完成。後者は、13世紀末に高麗の僧一然によって書かれた私撰の史書である。
『好太王碑』は、高句麗第19代の王である好太王、広開土王ともいう(374年-412年)、の業績を称えるため子の長寿王(394年-491年)が作成したもの。碑文によると甲寅年(西暦414年)に建てたとされる。
『宋書』は、中国南朝の宋の歴史書(5世紀)であり、「夷蛮伝」に、有名な『倭の五王』の朝貢が記されている。『梁書』(629年) には五王の一人『倭王武』の記載がある。
1)三国史記による三国の王の在位、寿命
下図は左から、古代の百済、新羅、高句麗の在位グラフ。百済は計31代、新羅32代、高句麗28代である。ちなみに、平均在位は百済20.7年、新羅23.7年、高句麗25.1年である。
ここでも2頁で記載した、日本の1~16代(神武~仁徳)の平均在位 60.6年が約3倍であることが留意される。三国の王の寿命(没年)西暦グラフもそれぞれ在位と全く同じ傾向を示すので掲載は割愛する。上図で百済だけが日本同様に古代王ほどズレる傾向がある。
次に各王の在位期間のヒストグラムを示すと比較してやはり百済が違うことが分かる。
日本はどうか?下の図-12、図-13をみれば、百済と極似していることは明確である。
※日本のデータの
代数は持統天皇までの計42(ただし神功皇后と弘文天皇も1代して
含む)。弘文は明治時代になって追号された。
2)日本と百済の関係および4国間の関係を『CORREL相関関数』で見る
表-3
更に、統計的な考察として、前記の在位数データについてCORREL相関関数を日本、百済、新羅、高句麗間で見てみる。表-3「各国間CORREL相関関数」で明確な様に日本-百済と高句麗-新羅は高い相関性がある。それぞれ深い関係が彼我の歴史書に記載されていつが、それを数字で裏付けている。また、書紀や三国史記が言う様に新羅-百済、日本-新羅が仇敵の間柄であることも分る。
3)三韓(百済、新羅、高句麗)と日本書紀
(1)百済 武寧王陵出土の金石文
1971年韓国公州宗山里から武寧王誌石が出土した。墓誌に『寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到』から癸卯年に六十二歳で没したことが明確である。なお、この王は斯麻(しま)王とある様に日本の島で生まれている。
関連する歴史書としては、次の日中韓3ケ国の資料があり、なんと全てが一致する。
・『三国史記』:武寧王二十一年に梁に朝貢し寧東大将軍の詔冊を受ける。➡521年
武寧王二十三年の条 夏五月王薨ず。➡523年
・『梁書』:武帝紀普通二年 鎮東代将軍百済王余隆を寧東大将軍となす。➡521年
・『日本書紀』:継体紀十七年夏五月百済王武寧薨ず。➡523年
これらから、継体元年は507年となる。これが全ての『紀年論』の基準点になるが、実
は簡単ではない。継体の没年には諸説ある(書紀531年もしくは534年、古事記527年)
し、寿命も大きく異なる(書紀82歳、古事記43歳)。手に負えないので棚上げとする。
(2)神功皇后と応神天皇と三国史記および広開土王碑文ほか
伝説的な存在である神功皇后とその子の15代応神天皇を取りあげることは、異論が多いだろうが、本考察の大前提は天皇の存在と系統はそのまま信じることである。征服王朝説、両朝並立説、王朝交代説等々は、根拠の想定が多過ぎるので、取り上げない。
〇国宝七支刀:日本書紀 神功皇后52年(252年)の条に、百済王(近肖古王に該当)が日本に七支刀一口他の重宝を献じたという記事が見られ、この七支刀は、石上神宮伝来の国宝七支刀のことであるとされている。刀身の表には「泰■四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀-以下略」(裏は割愛)という文字が刻まれており、問題は紀年銘の部分であり「泰■四年」の泰■が西晋の泰始四年268年、劉宋の泰始四年468年、東晋の太和四年369年等のケースがある。百済が中国年号を用いて、正朔を奉じ、その王朝に帰属しているので、東晋の太和四年になる。当時、百済は下記の様に高句麗との関係から、倭を頼る必要があった。神功皇后52年は120年加算し372年が定説であり、369年の制作が現実的になる。
・『三国史記』
369年 高句麗、百済を攻め雉壌の戦いで敗北する。
371年 百済、高句麗の平壌城を攻め、高句麗故国原王が戦死。
372年 東晋、百済王余句(近肖古王、在位346年-375年)を鎮東将軍領楽浪太守にす。
・『晋書』:咸安二年(372年)「百済王余句を拝して鎮東将軍・領楽浪太守と為す」
〇百済王年紀と神功紀 表-4
神功紀西暦と三国史記西暦は丁度120年(干支2巡)の差異がある。これが定説になっている。
〇倭―新羅-百済-高句麗 の外交史(戦争・人質など)
・391年『広開土王碑文』倭が海を渡って百済・加羅・新羅を破り、倭国の臣民となした。
高句麗、百済の関彌城を落とす。百済王が11月、狗原の行宮にて死去した。
・397年『三国史記』百済の阿莘王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。
・397年『日本書紀』応神天皇八年に百済太子腆支が人質として倭国に赴いた。
・399年『広開土王碑文』新羅が倭の侵攻を受ける。国境に満ち溢れ民を奴客とした。
・400年『広開土王碑文』高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し救援。
・402年『三国史記』新羅 実聖王元年(402年)倭国と講和し奈勿王の子未斯欣を人質に。
・404年『広開土王碑文』倭軍が高句麗領帯方界まで攻め込んだが高句麗軍に敗れる。
・405年『三国史記』倭国に人質となっていた百済王子の腆支が帰国し百済王に即位する。
「未斯欣」は、新羅第17代王・奈勿尼師今の第三王子。402年に日本に人質となった。書紀の「微叱己知」に比定されている。百済の人質王子腆支(書紀では直支王)と、この390年から400年初頭はまさに動乱の時代であり、神功皇后・応神天皇の時代と見てよい。
(3)応神天皇元年は390年
・応神天皇3年:百済阿華王が即位➡『三国史記』392年
・応神天皇8年:百済太子腆支が人質として倭国に来た➡『三国史記』397年
・応神天皇16年:百済阿華王が薨ず、腆支が帰国し、即位 腆支王。➡『三国史記』405年
・応神元年(庚寅):『日本書紀』270年➡390年(120年加算)上記情報と完全一致する。
(4)応神元年390年~継体507年は正しいか
15代応神から26代継体まで11代117年、平均10.6年。ちなみに41代持統687年までは26代
297年、平均11.4年であり、2頁で考察した現近代以前の天皇の平均在位数字に大変近い。
6.立太子年を考慮した考察 (3頁②説の修正)
表-1を見れば、古代天皇の在位や寿命に比べ、立太子年は不自然でなく妥当である。
そこで、次の換算式を考えて見る。なお、記号は 図-15に示す。
・新規寿命=立太子年A+(即位年~立太子年D:寿命C-立太子年A-在位B)/3+在位B/3
=立太子年A+(寿命C-立太子A)/3
例:仲哀天皇 (書紀寿命52歳-立太子年31歳)/3+31歳=新規寿命38歳 となる。
応神は仲哀が薨じた時に腹中であり、父親としては52歳より38歳がふさわしい。
・表-5に上記計算式に依る新規寿命の推算結果を示す。
表-5:立太子考慮に依る新在位、新寿命
・結果は、表-5の原在位と新在位の平均値が、各々61.6年と20.5年になり約3倍となる。
一方、寿命はそれぞれ105.5歳と48.5歳であり、約2倍となる。従って、それぞれ3倍年説と2倍年説の複合説とも言える。新規な試みであったが、妥当だと考える。更に累積グラフで確認すると図-16で新考察(赤)は図-4②の(青)より平準化されている。
7.おわりに
『紀年論』に対し意欲的に独自の考察を行った。概ね満足である。ただ、古代史ファンからは『倭の五王』の考察が無いことを責められそうである。書紀や古事記には記載が無く、難しい問題である。読者各位には、説明不足の点はお詫びするが、忌憚のない批判を乞う。
以上
※ この論説の後に、「倭の五王に謎は無い?」を当ブログに記載している。実は上記 紀年は見直しし、倭の五王の年代を正として、微調整している。例えば初代神武崩御年は103年➡159年に修正した。ここで古代の大阪地形と記紀の神武東征記述の照合から150年前後としてるが、崩御年は東征の事業以降なので良しとした。
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