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神功皇后の復活-1

1. はじめに

 最近の考古学最大の話題は、昨年(令和5年)奈良県富雄丸山古墳から「国宝級」「古墳時代の傑作」と称賛される「東アジア最大長の蛇行鉄剣」と「過去に例を見ない盾形銅鏡」が出土したことであろう。この古墳は、4世紀後半頃の築造と推定されており、神功(じんぐう)皇后が活躍したと想定される時代でもある。先に、この「窓」に『古代天皇紀年論の新考察』と『倭の五王に謎は無い』および『気候変動・火山噴火・古代史 シリーズ1~3』(以後、先報とする)を寄稿し、古代史の謎に挑んだ。今回は、歴史から忘却されている神功皇后の実在説について挑戦する。アプローチとして、彼女の最大業績である「新羅征討(もしくは三韓征伐)」に焦点を絞り、考古学や文献の資料、科学的データなどを用いて、実在説を構築した。以下4編に分け報告する。

2.総論としての非実在説と実在説

2-1.非実在説:総論

 非実在説の主な根拠は、記紀の「神託によって、夫の仲哀天皇の死後、身重の身にも関わらず男装して兵を率い、厳しい冬季の対馬海峡を楽々渡海し新羅を討ち(新羅征討)、凱旋後に子(後の応神天皇)を産み、その後 大和へ東征して、正統な後継皇子達を討ち滅ぼして新たな王朝を開いた」という信じがたい話を、創作であるとする点である。学問的には、著名な歴史学者の津田左右吉の論説が、代表的である。津田は戦前に『古事記及び日本書紀の新研究』1919年、『神代史の研究』1924年、『日本上代史硏究』1930年等を著わし、「初代神武から第14代仲哀までの皇室の系譜は、史実としての信頼性に欠ける」つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史料的価値はないとした。これが「皇室の尊厳を冒涜するもの」と指弾され、著書は発禁処分、早稲田大学教授も辞職させられた。しかし、戦後の史壇において、彼の戦前の受難経歴は天皇制批判の左翼陣営からは、英雄視された。しかし、彼には思想的な面は一切なく、皇室尊崇者でもあり、文化勲章も受けている。古代史を扱うことがいかに難しいかが分かる。津田は、また1948年に刊行された『日本古典の研究』において「日本が新羅を一時圧服したのは事実ではあるが、神功皇后伝説自体は事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたもの」とし、つまりは「物語」とした。この津田の指摘する「記紀や三国史記などの文献上の記述の不整合」は重要であり、これが、非実在説の理論的な支柱である。それ以外に、紀年の整合性、考古学上の根拠、4世紀に半島への軍事渡海可能な証明などは現在も未確立であり、反論するには、それらを論理的に検証すべきと考える。

2-2.実在説:総論

  ハワイ大学教授のチズコ・アレンは「Empress Jingū: a shamaness ruler in early Japan」2003年において、「戦後日本の歴史家の多くは、神功皇后を神話上の人物とみなし、記紀や風土記に記された彼女の生涯を、後世の皇后たちの生涯を反映した捏造の産物として扱った。しかし、神功の物語の基礎となる朝鮮半島への遠征の早くからの展開と、6世紀までに記録されていた功績が並外れて強調されていることに対処できていない。注意深く検討すると、4世紀における巫女・神官の支配者の重要性が確認される。神功は、「ペア統治(※)」の主要な統治者として活躍した一連の女性の代表的な存在であり、彼女の新羅への遠征は、これらの女性が朝鮮半島諸国との濃密な交流の時代を切り開く上で重要な役割を果たしたことを示唆している。この物語はまた、後者が軍事を掌握することにより、女性支配者から男性支配者への権力の漸進的な移行を示している。」という総括的な視点で、論説した。これが、実在説の総論的な核心である。

(※「ペア統治」とは古代日本において、卑弥呼と男弟、推古女帝と聖徳太子、斉明・皇極女帝と中兄皇子(天智天皇)等に代表される姉・弟や、母・息子の男女のペアで、女性が巫女的な神聖統治を、男性が政治面の実務を分担した統治形態をいう)ここで、重要なのは、女性も戦闘に参加していたことである。考古学的知見でも、古墳時代初期には、女性の埋葬例には装飾品が多いが、中期は装飾品以外に武器も同時に埋蔵されている。後期には副葬品は武器が多い男性中心の墳墓に変化した。神功皇后の想定時代である古墳時代中期~後期は、丁度この乗り移り期間に一致する。

ところで、中国の史書によれば、『新唐書』(1060年編纂) 日本伝は、「仲哀死して開化の曽孫女の神功を以て王と為す」と記し、『宋史』(1345年編纂)日本国伝も、雍熙元年(984年)日本の僧の奝然が献じた「王年代記」によるとして「(仲哀の)次は神功天皇といい、開化天皇の曽孫娘で、息長足姫天皇ともいい、(以下略)」と記す。神功の存在を、王として受け入れているのである。

3.実在説の根拠の各論

3―1.実在説:考古学他の証拠

1)巨大古墳の出現:謎の4世紀と言われるこの時期は、巨大古墳(多くは前方後円墳)の築造が全国的に展開され、副葬品も鉄刀、甲冑、馬具など武具類が多数出土する古代史上の画期である。冒頭紹介した富雄丸山古墳の「蛇行鉄剣」や「盾形銅鏡」は祭祀用と見られているが、形状は「武器」である。日本書紀(以降、書紀)や古事記には神功皇后と前代の景行天皇(仲哀天皇の父親の日本武尊も含む)、夫の仲哀天皇、子の応神天皇の時代に、戦闘場面と対外交渉関係が集中しており、時期は合致している。日本列島の大部分で3世紀中ごろから7世紀初めごろの約350年間に約5200基の古墳が造営された。また、朝鮮半島南西部に現在13基の前方後円墳が倭風の出土品とともに確認されており、4世紀における倭の勃興と朝鮮への進出を反映するものである。なお、神功皇后の墳墓は、五社神古墳とされ墳丘長267m×高さ27mであり、全国第12位の大古墳である。

2)七支刀:先報でも言及した奈良県天理市の石上神宮に伝来した古代の鉄剣で国宝である。金象嵌の銘文があり、内容は「百済王が倭王に贈った」との解釈が定説とされ、当時、百済が高句麗の圧迫を受けており、倭との同盟を求め、贈られたとされている。また、書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されているが、この七支刀に関して、書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。定説的な紀年論によるとこの年が372年にあたり、歴史学的にも、先報の紀年論からも年代的に神功記と七支刀の銘文は合致している。

3)裂田の溝(さくたのうなで):福岡県那珂川市にある日本最古の用水路で、現在も用いられ

ている。仲哀天皇崩御後に、神功皇后は、那珂川の水を引いて神田を潤す溝を掘削しようとしたが、

迹驚岡(とどろきのおか)に及んで、大岩が塞がっており、武内宿禰にその破壊を命じた。その時、

突然の落雷が岩を裂き田に水が通った。それが名前の由来になっている。近くに神功皇后を祭神と

する裂田神社がある。地元教育委員会が実施した地質的調査では、裂田の溝は裂田神社の付近で水

路の両側に未風化の花崗岩の堅い岩盤が露出していて、書紀の記述とまったく合致している。

4)波沙寐錦の碑文:神功記の新羅征討時に『新羅王波沙寐錦』とある。津田左右吉は「『新羅

王波沙寐錦』は、王として三国史記などに見えない名であり「波沙寐」は多分新羅の爵位の第4

級「波珍」の転訛で(中略)これは後人の付会であって(以下略)」と言っている。しかし、近年にな

って①1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された国宝の5世紀前半の高句麗の碑石『中原高句麗

碑』の碑文に「新羅寐錦」の文字がある。②また1988年に慶尚北道蔚珍郡竹辺面鳳坪里で発見され

『蔚珍鳳坪碑』は、6世紀初頭の碑石だが法興王は「寐錦王」とされている。③更に、有名な

『広開土王碑(好太王碑)』石碑には「新羅寐錦」の刻字がある(それまでは「新羅安錦」と読

まれていた)。これにより、書紀の神功記の「新羅王波沙寐錦」は、半島の複数の碑文と合致し

ており、三国史記よりも書紀の方が、当時の歴史的実態を反映している証左である。

5)『梁職貢図』:『職貢図』は、中国の周辺諸民族が、様々な扮装で来朝する様を、文章と絵

図で描いているもので、6世紀に作成された。原本は紛失していて、唐、南唐、北宋の模本の三種

類が現存しているが、いずれも完本ではなく、記事に欠落も多い。新羅と高句麗に対する説明の部

分は失われていたと見なされていたが、近年、発見された清朝の画家張庚の模写による『諸番職

貢圖巻』の題記には、「斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代は新羅といい、劉宋の時代に

は斯羅というが同一の国である。或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属したため国王は使者

を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して始めて朝貢した」

とある。これは『広開土王碑碑文』における「百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、

倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした」という記述と関連付け

られる。つまり、神功皇后の新羅征討の記事に一定の裏づけを与えるものである。

6)渡海可能な船:非実在論に、この時代に外洋を渡海できる船(特に帆船)は有り得ないという説

がある。船や航海の専門家中にも、海峡を渡海可能な船の存在を否定している向きもある。しかし、

既に縄文時代に、丸木舟ではあるが、翡翠や黒曜石を各地の原産地から、遠く青森の三内丸山遺跡

などの日本各地や、朝鮮半島、大陸へ大量にかつ広範囲に運んでいるのである。これは、遠い昔か

ら遠洋航海者の存在を示唆している。考古学上は、1989年出土の兵庫県豊岡市出石の袴狭遺跡の線

刻画(次頁左図)があり、紀元前1世紀頃に日本海を走る16艘の船を描いたものがある。船は船首

が高く上がった外洋航海用の手漕ぎの準構造船(丸木舟に上部構造)で、明らかに船団を組んでい

る。次頁右図は、岐阜県大垣市の荒尾南遺跡の弥生時代の方形周溝墓の溝から、1996年に出土した

広口壺の線刻画である。3艘の船が描かれていて、中央の船は82本のオールを持つ大型船で、中央  と船尾には2本ずつ旗がなびいて見えるが、畳んだ帆とする説も有る。

 古墳時代には、三重県松阪市の宝塚1号墳(5世紀初頭)から出土した船形埴輪が、全長140cm、円筒台を含めた高さ94cm、最大幅36cmの大型埴輪で有名である。下図は松阪市広報HPより転用した。図中で儀仗とされている部分は、2本の帆であろうという説が有り、大いに賛成する。 

 歴史を俯瞰すると、3世紀の魏の卑弥呼への使者は、朝鮮から対馬、壱岐を経て倭に来ていているが、船以外の移動手段はない。さらに、57年に「漢委奴国王」の金印の王や、107年に生口を160人献じた倭王帥升の朝貢の時も、船でしか海峡は渡れない。伝説では、北九州市の皿倉山は、神功皇后が帆柱に使用した木材を切り出した山といわれ、別名帆柱山という。また、福岡市の多々良川の河口には国の天然記念物である名島檣石(なじまほばしらいし)という円柱状の石片がある。事実は、約3700年前のカシ属の幹の化石(珪化木)であるが、香椎宮の社伝によれば、神功皇后の御座船の帆柱の化石と伝える。以上より、渡海可能な帆船はあったと確信する。

7)冬季の海峡渡海:この項は、もっとも力説したい論点の一つである。『日本書紀』の神功記

には「冬10月3日に和珥津(対馬上県郡の鰐浦)から出発した。その時、飛廉が風を起こし、陽侯

は波を挙げて、海の中の大魚は全て浮かんで来て、船を助けた。大きな風順(おいかぜ)が吹いて、

帆舶は波のままに進んだ。㯭楫(かじかい)は苦労することなく、すぐに新羅に到着した。その時

に隨船潮浪(フナナミ=船と波)は遠く、国の中程までに及んだ。」とある。『古事記』にも「軍

を整え、船を双め、度り幸でます時に、海原の魚、大き小さきを問わず、悉く御船を負いて渡る。

しこうして順風大きに起こり、御船波に従ふ。故其の御船の波爛、新羅国に押し騰り、既に国の平

らに到る」と、まったく同じ内容を伝える。書紀に「帆舶」とあり、書紀も古事記も順風とある

ので、帆船であろう。なお、大魚が船を助けたというおとぎ話のような記述があるが、対馬海峡は

イルカの群れが多いので有名であり、秋・冬季にもイルカは観察される。一方、『三国史記』に出

てくる倭の新羅襲撃は、月の記録があるもので、121年から500年の間で計26件もあるが、旧暦の4

月12件、5月5件、6月4件と4~6月に集中しており、一方、9月から1月の間は全く見られない。こ

れにより、非実在論者は、「季節が重要という航海の実態を知らない無知な文官が机上で創作した」

と非難している。実在論者の中にも、能力3ノット程度の古代船では冬季を航行することは無理と

し、10月は誤伝だろうという方もいる。以下、合理的に考えてみたい。    <次号に続く>                   

                 

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