「神功皇后」の復活-1からの続き。
3.実在説の根拠の各論
3―1.実在説:考古学他の証拠
7)冬季の海峡渡海 (前段は前号を参照されたし)
先ず、対馬海峡の海流速度は平均して1.3ノット(2.4km/時)である。距離は、計り方で違ってく
るが、朝鮮半島(釜山)~対馬北端(鰐浦)は約50km、対馬南端~壱岐で約50km、壱岐~九州本土
(呼子)で26kmであり、計約126kmとなる。ちなみに、遠泳で有名なドーバー海峡は、最短34km、流
速は最大4~5ノットという。対馬海峡の連続横断(休憩なし)の遠泳記録は見当たらないが、ヨ
ットでは、YOUTUBEの「ヨットARCADIA号の航海記」2014年5月がある。対馬海流と追風に助けら
れ、時には7ノットの順調なナイトセーリングで、夏季ではあるがたったの5時間で着いている。
ここで、「中世日朝通交貿易における船と航海」(国立歴史民俗博物館研究報告 2021年3月荒木和憲)という重要論文(以下、民博報告)を取りあげ、秋・冬季渡海の可能性を証明する。民博報告によれば、玄界灘と対馬海峡における中世の航海記録として、臨済僧玄蘇の朝鮮使行に関する『仙巣稿』がある。1580年、玄蘇は,博多―対馬間、そして対馬―釜山間の航海の記録を詩文のなかに書き留めている。対馬に27~29日も風待ち泊をつづけ、旧暦10月の初(1~3日)の「日午」12 時に鰐浦を出航した。このときの風は、「風自東北隅来」と記されている。民博報告は「鰐浦から釜山に渡航するには,東北風が順風だったようである」というが、東北風なら向かい風になる。しかし、帆船やヨットなら、周知の様に航行可能である(順風というか疑問だが)。釜山浦に入港したのは,深夜の丑刻(1~3時)であり、半日程度で着いている。以上の様に、玄蘇は神功皇后と同じ10月の初日(旧暦)に渡航していて、秋・冬季でも渡海は可能である事を証明している。
さらに、民博報告は、対馬藩の半島への歳遣船について尺量(臨検のこと)の回数を、出航する船の頻度として元亀3年度(1572年度)、天正元年度(1573年度)、天正2年度(1574年度)の記録を示している。下図は、民博報告と三国史記の月別頻度データを整理して作図したものである。
左図解説:三国史記では、9月~1月は一度も倭の侵攻はない。一方、民博報告の歳遣船は、秋季・冬季でも実績があり、特に10月に後半のピークがあり、注目すべきである。即ち、神功記の10月渡航は虚構ではない。かつ、後述するが、三国史記には月の記載がない侵攻記事があり、正にその時点が「新羅征討」の時期と合致する。図で、前半の春季・夏季は、全体として活発であり、渡海に最適な時期を示す。三国史記では4月、歳遣船で3月がピークであるが、それも1ケ月の差である。
なお、民博報告は「朝鮮渡航が10月(10月下旬~12月上旬)にも集中する点については,自然条件では説明できそうにない」といい、自然条件のみでは、判断できないと、自ら認めている。ところで、福岡の宗像大社は毎年10月1日(新暦だが)に数百隻による大規模な海上神幸行事、「みあれ祭」を行っている。祭神は神功皇后にも重要な役割を担う宗像三女神である。また、古事記の神功記に記載されている「表筒雄」「中筒雄」「底筒雄」の大神、即ち、住吉の神は、航海を司る星の神で、オリオン座をいう。周知の様に、オリオンは冬の星座で、見え始める10月頃だと、23時頃に東の空に見える。東なのは、新羅への航海は東北を目指すからと考えられる。これも、神功の冬季渡航の傍証となると考える。
以上により、秋・冬季渡海が可能である事を示したが、次に気候学・海洋学的に考察してみる。
下図左は対馬の東西の海流状況(11月)を示す。西側に東北方向に強い海流があり、それは新羅の東部へつながる。右図は平均の海流輸送量を示すが、10月-11月(新暦)頃にピークがある。
月平均表流速場(実測値、11月) 九大2007年 対馬海峡から日本海への月平均総輸送量 九大2012年
下左図説明:
・上から総量、対馬の西側海流、東側海流を示す。・縦軸は平均流量Sv(106m3/sec=百トン/秒)・横軸は月(新暦) 矢印は10月(新暦)
風と波について、海上保安庁海洋情報部の『日本近海波浪統計図集』から対馬周辺のデータを示す。左図は5月、右図が11月である(旧暦相当では4月、10月)。季節による差異は明瞭であるが、航行の難しさにも差があるかを考察する。
【風向・風力】
[ビューフォート風力階級表]
0:0.3m/s未満で鏡のような海面
1:0.3-1.6m/s未満で有義波高0.1m程度
2:1.6-3.4m/s未満で有義波高0.2m程度
3:3.4-5.5m/s未満で有義波高0.6m程度
4:5.5-8.0m/s未満で有義波高1.0m程度
5:8.0-10.8m/sで有義波高2m程度
6:10.8-13.9m/sで有義波高3m程度
7:13.9-17.2m/sで有義波高4m程度
8:17.2-20.8m/sで有義波高5.5m程度
9:20.8-24.5m/sで有義波高7m程度
10:24.5-28.5m/sで有義波高9m程度
11:28.5-32.7m/sで有義波高11.5m程度
12:32.7m/s-で有義波高14m超
【波のうねり】
[気象庁うねりの階級]
0:うねりがない。
1:短くまたは中位の弱いうねり(波高2m未満)
2:長く弱いうねり(波高2m未満)
3:短くやや高いうねり(波高2m ~ 4m)
4:中位のやや高いうねり(波高2m ~ 4m)
5:長くやや高いうねり(波高2m ~ 4m)
6:短く高いうねり(波高4m以上)
7:中位の高いうねり(波高4m以上)
8:長く高いうねり(波高4m以上)
9:2方向以上からうねりがきて海上が混乱している場合
倭の侵攻が5月(旧暦4月)などの春季・初夏に多いのは南西から北東への風と波の時期があるためと思われる。一方、11月(旧暦10月)は、風も波も北東部に偏っている。逆風であり、船の航行には、非常に困難に見えるが、よく見れば、強度は5月程度であり、一方、東北方向の海流の輸送量はこの時期に、もっとも多く、歳遣船の実績通り、航行可能だったと考える。ちなみに、対馬海峡を挟む歴史上の海戦をみてみると、白村江の戦いは663年10月、元寇は文永の役1272年10月、弘安の役1281年7月である。秀吉の文禄の役は1592年3月、慶長の役は1597年2月であった。以上、年月は西暦換算であるが、弘安の役の7月を除けば、必ずしも温暖な季節ではない。そもそも、戦争は非常時であって、神功皇后の冬季渡海が異常時であったことは間違いない。真珠湾攻撃も、厳冬の時期12月に、荒天を突いてオホーツク海から北太平洋を横断して決行されたではないか。
8)妊婦の渡海、武寧王の墓碑銘、鎮懐石
さらに、非実在説の根拠とされているのは、神功皇后が身重の身で対馬海峡を渡海したことへの不信である。現代でも、妊婦の乗船には事前の書類申請が要請され、原則は自己責任である。ただし、安定期なら渡航の例もあり、書紀も神功皇后は10月に渡航、2月に産んだとし安定期であった。さて、妊婦が対馬海峡を渡海して子を産んだ例が、書紀にある。即ち、雄略5年4月、百済の第21代蓋鹵王は、弟の昆支王(軍君)を日本へ派遣する際に、軍君の「君の婦を賜りたい」の願いに、蓋鹵王は臨月の妊婦を与え「途中で産まれれば、婦とその子同じ船に乗せ、速やかに国に送るように」と命じた。その後、6月に筑紫の各羅嶋にて子が生まれ、嶋君(セマキシ)と名付けられた-という。ところが、1971年に韓国公州の武寧王陵が発掘され、奇跡の発見とされた。墓誌銘には【寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到】とあり、この斯麻(シマ)王は、生年も雄略6年相当の426年であり、嶋君と読みが同じで、書紀の記述が証明された。一方、三国史記には該当する記事がどこにもないのである。ところで、神功皇后が、渡海時に出産を延ばすために用いた、いわゆる「鎮懐石」は、後の世に山上憶良も詠んでいるが、その記録では、大きい石では長径37.5cm、重さ11kgと、抱えるには、さすがに不自然であり、船のバラスト(安定用に底に積む石)と推測する。本当は、冬の寒さを防ぐ小さな温石ではなかったろうか。
3-2.実在説:文献上の考察
ここでいう文献とは日本の『日本書紀』『古事記』と朝鮮の『三国史記』『三国遺事』を指す。
『三国史記』は三一書房1975年、『三国史記倭人伝(三国遺事を含む)』岩波文庫1988年を用いた。
1) 新羅征討時の新羅王名
(1)昔于老伝説
『三国史記』にいわゆる「昔于老伝説」という悲劇の将軍の記述がある。いわく、12代沾解王の3年に倭国の使臣の「葛那古」を新羅が接待したとき、接待役の「昔于老」は戯れに「早晩、汝の王を塩奴とし、王妃を飯炊き女にする」と言ったので、それを聞いた倭王は怒って「于道朱君」を派遣した。于老は失言をわびたが、倭人は許さず、于老は捕らえられて焼き殺された。于老の妻が、13代味鄒尼師今の時代になって倭国の大臣が新羅に訪れたとき願い出て、饗応し、大臣が泥酔したところを焼き殺し、怨みを晴らした。このことが原因で倭人は新羅の首都金城を攻撃してきたが、勝てずして引き上げたという。この「昔于老伝説」については、書紀にも極似した記事がある。神功記の新羅征討記事の別伝『一に云はく、新羅の王を禽獲にして、海辺に詣りて、王の臑筋を抜きて、石の上に匍匐はしむ。俄ありて斬りて、沙の中に埋みつ(略)新羅の王妻、夫の屍を埋みし地を知らずして、乃ち宰に誂へて曰はく、「汝、当に王の屍を埋みし処を識らしめば、必ずあつく報いせむ。且吾、汝が妻と為らむ」といふ。是に、宰埋みし処を告ぐ。即ち王の妻と国人と、共に議りて宰を殺しつ。更に王の屍を出して、他所の葬る。是に、天皇聞こしめして、重発震忿りたまひて、大きに軍衆を起したまひ、頓に新羅を滅ぼさむとす(略)是の時に、新羅の国人悉に懼りて、不知所如。即ち相集ひて共に議りて、王の妻を殺して罪を謝ひにき。』と。この『三国史記』と書紀の記事は、どちらも大筋において酷似した内容であり、詳細な記述があり、事実であろう。神功記の別の一書では、王名を新羅王「宇流助富利智干」としている。ここで、宇流・助富利智干(ウル・ソホリチカ)=于老(u-ru=ウル)+舒弗邯(spurkan=ソホリチカ)となり、一致するので、「宇流」ウルを、于老ウロウとする説が多い。しかし、于老は王ではなく、官位第一等「舒弗邯」で将軍であった。ただ、彼は第10代奈解泥師今(在位196~230年)の太子であり、第16代訖解泥師今(在位310~356年)の父なので王位に一番近い人物であったのは間違いない。ちなみに、同時代の日本側は、書紀紀年で、仲哀天皇(192~200年)、神功皇后(201~269年)、応神天皇(270~ 310年)、仁徳天皇(313~399年)であり、双方、紀年幅があっている。
前記の「于道朱君」は于道がウジ→内ウチ、朱君シュクンが宿祢スクネで「武内宿祢」に当てる説がある。「葛那古」は書紀の「葛城襲津彦ソツヒコ」の省略形と考えられ、また、葛城襲津彦は、書紀所引の『百済記』の「沙至比跪サチヒク」に当てられており、書紀に出てくる人物名が『三国史記』にもあることになる。神功記の真実性の一端が伺える。しかし、日韓の神功皇后の非実在論者は、共にこれを「伝説・説話」の類としている。神功記の方も、混乱がある。神功紀の新羅征討時の新羅側の王名は、本紀には先に述べたように「新羅王波沙寐錦」とある。この「波沙寐錦」は、三国史記の新羅本記に記す第5代「婆娑尼師今」(在位80~112年)と推定され、そうだとすると、仮に、通説の様に、干支2巡の120年を繰り下げても、上代に過ぎ、これも新羅征討や神功の否定論の根拠の一つになっている(後述する)。于老の没年は三国史記の新羅本紀では第10代沾解泥師今4年(249年)、列伝では沾解泥師今7年(253年)と差異もある。また、書紀の別伝では「宇流助富利智干」は降伏時点では殺されていない点も于老とは違うなど違いは多い。
(2)昔于老の年紀考察
ここでは、西暦換算の年代の不一致の解消に焦点を絞り、先報の「古代天皇紀年論の新考察」の紀年論を用いて考えてみた。念のために新羅王の関連年紀の詳細を次頁(次号)の表に示す。于老死亡時に、彼の子で後の第16代訖解泥師今はまだ幼児であったという。仮に2歳とすると、 ① 53歳の子で、即位時には63歳、死亡時109歳。② 57歳の子、即位時59歳、死亡時105歳。
どちらも、年齢が不自然で、寿命は有り得ない。一方、(B)の修正紀年では于老の活躍年代と年齢にギャップはない。子の第16代訖解泥師今の即位時は、①39歳、②38歳となる。また死亡年齢は ①49歳、②48歳となり、どちらも常識的である。于老死亡時の①45歳、②46歳は、2歳の父として有り得る年齢であり、子が幼いと言うのは、この年齢にしてはと言うことであろうと考える。
<次号に続く>
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