「神功皇后」の復活-2からの続き。
3-2.実在説:文献上の考察
1) 新羅征討時の新羅王名
(2)昔于老の年紀考察 (前段については前号を参照されたし)
三国史記の公式年紀(A)と筆者の考察した修正年紀(B)を下表に示す。以降は(B)を正とする。
(A)三国史記公式年紀
・第10代奈解尼師今の14年(209年)に于老は太子の位。仮に15歳とすると194年生まれ。
・第11代助賁尼師今の2年(231年)7月に伊飡(2等官)の位で大将軍。(本紀、列伝とも同じ)
・第11代助賁尼師今の4年(233年)4月に伊飡于老が倭人と戦い勝利。(本紀、列伝とも同じ)
・第11代助賁尼師今の15年(244年)舒弗邯に任じられる。 (本紀の記述)
・第12代王沾解尼師今3年(249年)①4月に倭人が舒弗邯于老を殺す。享年55歳。(本紀の記述)
・第12代王沾解尼師今7年(253年)②倭人が舒弗邯于老を殺す。享年59歳 (列伝の記述)
(B) 修正年紀
【新羅王の在位】 公式紀年 筆者修正(「窓」公開:寿命2倍・在位3倍暦として)
・第9代伐休泥師今 184~196年 → 308年没
・第10代奈解泥師今 196~230年 → 324年没:奈解王14年に太子、308+14/3-15=298年生まれ。
・第11代助賁尼師今 230~247年 → 342年没:15年に舒弗邯叙任、324+15/3=329年、31歳
・第12代沾解泥師今 247~261年 → 352年没:①342+3/3=343年 45歳、②342+7/3=344年 46歳
・第15代基臨泥師今 298~310年 → 382年没:第16代訖解泥師今 元年
・第16代訖解泥師今 310~356年 → 392年没:父親の于老死亡時2歳程度➡生年 ①341年、②342年
下図は通説の新羅王系統図である。緑枠の于老にメインに、関連する王をハイライトしている。
2) 新羅征討時の紀年
この時、于老の死亡西暦年は344年、もしくは346年となる。新羅本紀には15代基臨王2年(322
年)に使者を交換して和平が成立し、その後はしばらく争った記録がない。次に争いの記録が登
場するのは、次の新羅本紀の16代訖解王の記事である。「(344年)倭国が使者をつかわして、婚姻
を請うたが、断った。 (345年)倭王が、書を送って国交を断ってきた。(346年)倭兵が風島に来て、
進んで首都金城を包囲して攻めて来たが城門を閉め出て戦わなかった。(中略)騎兵で追撃し大い
に破った。」とある。この346年は筆者の修正紀年では、第16代訖解泥師今ではなく12代沾解泥師
今の時代となり、于老が殺された年、即ち、神功皇后の新羅征討の年になる。かつ、書紀に依れ
ば「仲哀天皇」は征討直前に亡くなっているので、「仲哀天皇」の没年時でもある。以上の考察
で、于老の事績と年代も、神功皇后の新羅征討年時もともに紀年上の346年であれば整合性がある。
しかし、346年説だけではなく、331年、364年、391年説がある。そこで、その妥当性を判断する。
(a) 331年説:北海道大学教授 栗原薫が、2012年に発表した『大化前代の紀年』シリースの論文の
なかで提案している。また「辛酉起点半年一年の紀年説」を提唱している。以下に要点を記す。
① 『高句麗好太王碑』倭以辛卯年来渡海破百残□口□羅以為臣民.
② 『仲哀記』凡帯中津日子天皇之御年 伍拾試歳(壬戎年六月十一日崩也)
③ 仲哀天皇の崩年は三韓征伐の年で、倭渡海云々と一致する。辛卯の年は「辛酉起点半年一
年の紀年」の壬戎に該当する。辛卯を391年説に解する人が多いが、私(栗原)は331年と思う。
【検証】「辛酉起点半年一年の紀年説」はいわゆる紀年2倍説であり、干支の相関性で説明する。
辛卯は辛酉起点でNo.31、(先報「古代天皇紀年論の新考察」4ページの表2を参照 以下のNo.も同
じ))、古事記崩年干支の壬戎はNo.2であり、(31-30)×2=2で合致する。なお辛卯は331年と391年
が該当し、壬戎は302年または362年となり、362年は(c)364年説を取る場合の根拠にもなっている。
一方、書紀の仲哀没年は200年(庚辰、No.20)である。栗原は、允恭以前は、古事記と書紀の紀年に
16年のズレがあるといい、確かに2×2+16=20だが、根拠はよく分からない。
【判断】331年には、倭の新羅侵攻の記事は無い。かつ『高句麗好太王碑』辛卯年の391年では
なく、331年とする根拠は無い。素直に考えれば、倭の侵攻記事のある391年をとるべきである。
(b) 346年説:古気候学の山本武夫が『日本書紀の新年代解読』1979年で346年説を唱えている。先
に説明したように弊説でもある。先ず、346年に新羅侵攻の記事が三国史記にあり、かつ倭王、倭兵とあり、単なる倭人や倭賊ではなく、正規軍である。なお、346年(丙午、No.46)は(46-30)×2-1=31→辛卯となる関係がある。この点は、栗原薫の説および弊説の紀年検討の補足になる。なお、Gina L. Barnes ロンドン大学名誉教授の『A Hypothesis for Early Kofun Rulership』2014年には、独自の古墳年代の考察から346年を仲哀天皇の没年としている。しかし、歴代天皇年表の中で神功は「物語上の存在」とし省き、新羅征討も無視している。そこで、仲哀346年崩御説の根拠として、間接的に神功の新羅征討の時期と一致するとする。強調したいのは、『三国史記』500年までの倭の侵攻記事27件の中で、この346年のみが、季節の記事がなく、逆説的にこれを正解としたい。
(c) 364年説:新羅本紀364年に「夏四月(途中略)倭人は多数をたのんで、直進して来る所を伏兵が
その不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した」とある。また、仲哀天皇崩御は古事記紀年では362年だから、364年に近く、実在論でも強い支持を得ている。さらに、神功が新羅より凱旋し、翌年に仲哀後継皇子達を討ったおりに「昼の暗きこと夜の如く」という不思議な記事があり、これを364年の日蝕現象を根拠にしている説も有る。しかし、書紀の記事は日蝕のような短時間(数分)ではなく長期である。そもそも、見える地域と時間が限られ、根拠不十分である。むしろ考えられるのは火山活動による噴煙・粉塵であろう。先報の『気候変動・火山噴火・古代史 』でも、神話の「天の岩戸隠れ」を日蝕では無く、火山活動の異常気象とした。4世紀半ば(1600~1700年前)には、九重山黒岳の噴火マグニチュード5.6の大噴火があった。なお、1990年の雲仙岳噴火は4.6である。火山説では、364年も346年も成立するが、364年は、4月になっていて合わない。
(d) 391年説:先に述べた(a)説の干支1巡の60年前に相当する。従って説明は省くが、この説を支
持する論者も多い。それは、金石資料である『高句麗好太王碑』と、391年に高句麗の19代広開土王即位(碑文)と三国史記記述(392年)が1年のズレはあるがほぼ一致し、新羅本紀に「392年 (新羅は)高句麗に実聖を人質に送った」および「夏5月、393年倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。」とあるのを重視するからである。なお、1年のズレは詳細な暦研究があり、碑文が正しいとされている。また、高句麗と百済は、390年 百済が高句麗の都押城を攻め男女200名を捕虜とした。392年 広開土王が兵四万を率いて百済を攻め十余城を陥れた。394年 広開土王は百済と湏水(大同江)で戦い八千余名を捕獲した。などと戦闘の記事が多く、魅力ある説だが、神功時代とは合わないことと、于老の死亡時期とも合わない。何より、侵攻時期が5月であり合わない。
3)武内宿祢と葛城襲津彦
武内宿祢は景行天皇14年に生まれ、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の
各天皇と神功皇后に仕え、「360歳まで生きたという伝説上の忠臣」とされている。葛城襲津彦は、
武内宿禰の子で、履中天皇(第17代)・反正天皇(第18代)・允恭天皇(第19代)の外祖父でもあ
り、対朝鮮外交で活躍したとされ、彼も伝説上の人物とされている。襲津彦は書紀では、神功皇
后・応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)に渡って事績が記されている。つまりは、親子2代
で神功皇后に仕えており、神功の実在を論議する場合は、彼らの実在性と年紀を確認する必要が
ある。葛城襲津彦は、井上光貞が『帝紀からみた葛城氏』1956年において、古事記と書紀の原資料
という『帝紀』の内容を検討して、『宋書』や江田船山古墳鉄剣の銘文などを元に倭の五王につ
いて実在した天皇を検証し、書紀に引用されている『百済記』の記事を詳細に比較して、葛城襲
津彦が日本史で最初に実在した人物であるとした。この説は、今は多くの支持が有る。一方で、
父親の武内宿祢の実在を支持する歴史学者がいないのは、有り得ない長寿の持ち主であり、研究
対象にしないのだろう。なお、在野の研究者の実在説は、多数あるが、納得のいくものはない。
(1)武内宿祢の年紀
武内宿祢は、書紀では成務天皇と同年同日で、景行天皇14年生まれとある。修正紀年では景行元年(垂仁没年)は311年であり、311+14/3(3倍説)=316年生まれとなる。ここらは、紀年論次第で、10年程度は前後すると考えるが、こちらを取る。
・新羅征討時:346年では30歳である。歴史画には白髪の老翁として描かれていることが多い。記紀を読む限り、この時点で老人とする記述はない。また、仁徳天皇の時代の末にまで長生きするためには、若くなくてはならない。ちなみに仲哀天皇の寿命は書紀も古事記も52歳で2倍説なら26歳である。ここで、神功皇后は、成務天皇40年生まれとされ、成務元年(景行没年)325年から325+40/3(3倍説)=338年、もしくは、成務公称在位60年に対し推算18年、40年時は18×(40/60)=12年で、325+12=337年で、同じになる。従って、346年には17歳か18歳となる。妥当である。
・最晩年:書紀の仁徳天皇50年3月5日条に茨田堤に雁が卵を産んだことから、仁徳天皇が武内宿
禰を呼び寄せて、歌で雁が卵を生んだ様子を尋ねた。「たまきはる内の朝臣汝こそは世の長人
(ながびと)そらみつ 倭の国に 雁卵生と聞くや」と。長人とは長寿命のことであるが、仁徳
自身が書紀で110歳、古事記でも83歳である。しかし、2倍暦で言えば、55歳、42歳となる。そうす
ると、世の中で一番の長生きと言えば、90歳以上ではないか。仁徳50年から、ほどなく亡くなった
として応神没年を394年とすると394+50/3=411年より、411-316=95歳 となり有り得る。
(2)葛城襲津彦の年紀
書紀の神功62年の記事中に葛城襲津彦が出てくる。「『百済記』に云はく、壬午年に、新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪を遣して討たしむ。新羅人、美女二人を荘飾りて津に迎え誘る。貴国、沙至比跪、其の美女を受けて、反りて加羅国を伐つ 」。この「沙至比跪」が「葛城襲津彦」と書紀本文にあり、「壬午年」は西暦382年に該当する。一方、応神記14、16条に、秦氏帰化関連の記事がある.14年(403年)弓月君が単独帰化したこと、引率された百廿県の人夫たちが、新羅人に拒まれ加羅国に留まっていると奏上したため、朝廷がこれにこたえて葛城襲津彦を加羅に派遣したが、襲津彦は三年も帰らず、15年(405年)、平群木菟宿祢らを加羅に派遣し目的は達せられた。襲津彦も人夫らと共に日本へ帰って来たと記されている。この応神14、16年の襲津彦の動きが,前記の百済記の沙至比脆の件と似ている。これは、前出の歴史家の井上光貞や山本武夫も指摘している。栗原薫は「辛酉起点半年一年の紀年説」により、神功記62年(壬午)と応神14年(癸卯)および応神16年(乙巳)が合致するとしている。壬午、No.22と癸卯、No.43および乙巳、No.45は22×2-1=43、さらに2年後は43+2=45で完全に一致する。従って、神功記と応神記の記事は、同じ事件である。ここでは、応神記を正として考える。402年には新羅は倭国に奈勿王の子の未斯欣を人質として送った。この未斯欣を、書紀は、葛城襲津彦が、神功記5年の人質返還に同行して新羅へ渡海したというが、三国史記では418年になる。一方、三国遺事では人質派遣を390年、人質返還は425年とあり、同じ朝鮮史書でもかなりの差異が見られる。次項で詳しく考察するが、418年説を取る。その場合、葛城襲津彦は、405年で30代、418年で50代と想定される。換算すると、武内宿祢50代始めの子供となるが、六男というので、おかしくない。
【閑話休題】
神功皇后は賢くて美人であった。神功記に「幼くして聡明(さと)く叡智(さか)しくいます。貌容壮麗(はなはだかを)よし」とある。しかし、続いて「父の王、異(あやし)びたまふ」という、妙な記事がある。実は、彼女は、母方を辿ると新羅の王子「天之日矛または天日槍(あめのひぼこ)」の5世孫であり、新羅は父祖の土地になる。また、新羅を「眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在り」といい、侵攻の理由としている。実際に、古墳からは豪華な王冠など金製品が多く出土している。また、ローマングラスや角盃など、騎馬民族特有の出土品があり、特異な文化であった。前述の「異(あやし)びたまふ」とは、今風に言えば、ハーフ顔ではないだろうか。ちなみに、新羅は美人国であった。彼我の史書に明らかであるが、葛城襲津彦は美女に籠絡されているし、倭や百済は度々婚姻を求めている。雄略記では、新羅から来朝した池津媛の逸話が有名である。また、中国や高句麗に女性を献上している史実もある。妄想ついでに、歴史の類似では、時代も場所も違うが、オルレアンの少女、ジャンヌダルクを想起せざるを得ない。一少女が神のお告げを受け、男装し、軍を率いて、難敵を撃破したという奇跡の共通点がある。なお、神功皇后は、古代日本では、本来なら血統からみて、絶対に皇后になれないのに、神託により地位を得た。漢風諡号で、前に神がつくのは神武と神功だけであり、神功は新王朝の始祖に相応しい。<次号(最終回)に続く>
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